天明・天保の飢饉と下館藩

天保の大飢饉 (1832−1837) は天明の飢饉 (1783−1787) を上回る規模でした。 百姓たちの不満は高まり、 一揆や打ち壊しが激化し、 全国に広がり始めました。

下館藩では、 二つの飢饉の後、 領内の人口が半減するほどの惨状でした。 五行、 小貝の両河川の氾濫を始め、 打ち続く凶作に下館の農民は極度の困難に陥いりました。 藩主の治世能力の欠如は決定的で、 借財もかさんで藩財政は破局に直面していました。

しかし他の藩をみると、 日本全国を襲った飢饉のなかで衣食に困らず余裕を見せていた藩もありました。 その一つ近隣の桜町 (栃木県二宮町) では、 一人の餓死者も出さずに大勢の領民を救っていました。 この時の指導者が二宮尊徳で、 下館藩でも、 尊徳の力を頼り、 その指導を仰ぐために一年をかけて口説き、 ついにその指導を受けることができ、 藩の財政は立ち直っていくのです。