塩田さんの下館の祇園と神輿への熱い思いが伝わってくるレポートです。
(このレポートは平成4年に書かれたものです。)


誤字脱字は編者の責任です。ご指摘いただければ幸いです。

目 次
はじめに 夜祭り 川渡御(かわとぎょ)
半纏(はんてん) お囃子(はやし) かけ声
木、拍子木 鳳凰(ほうおう) 担ぎ棒と担ぎ方
泥摺り(どろすり) 注連縄(しめなわ) お仮屋(かりや)
晒(さらし) お宮入り 手締め
あとがき 神輿各部の名称

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はじめに

 下館夏の三大祭りの一つ祇園祭は、ふつう「下館のぎおん」と呼ばれ、毎年7月24日より28日の朝まで盛大に実施されてる。(編者注・平成10年から毎年7月末の木、金、土曜日に行っている。) だがこの祭りにも最近変化が見られるようになった。
 羽黒神社の大人の神輿や玉依会の女神輿は盛大であるが、子供神輿にいたっては、旧市街地での子供の減少に伴い、女子が多く目立つようになった。このように女子の助けを借りなければもう町内では神輿の渡御が不可能になりつつあり、今後の渡御ができなくなる心配がある。
 今から30数年前くらいは、どの家にも子供の3、4人はいた。又現在のように成人すると親元をはなれて独立をしたり核家族化せずに結婚前の若い青年達が大勢いた。この青年達によって子供神輿の渡御が運営されていた。 最近では「祇園祭」と呼ぶようになったが、以前は祭りという言葉はあまり使わずに、ただ夏の祭りを「ぎおん」と呼んでいた。それも「ぎおん」ではなく「ぎょん」と音の詰まる発音である。そしてその頭に「下館のぎょん」とか、「どこどこのぎょん」とかを冠したのである。 「神輿」という呼び方もしなかった。「天のうさん」で、かつぐことを「もむ」といい、「天のうさんをもむ」という呼び方をした。
 旧暦の6月14日から17日までが祇園であり京都八坂神社の祇園祭と同じ日である。かつては旧暦で行っていたので新暦の7月末から時には8月になるときもあった。七夕飾りの中を神輿渡御を行ったこともあったが、昭和40年頃より現在の7月24日からとなった。学校の夏休みに入ってからであり、子供神輿にはつごうが良かった。各地区部落ではやはり旧暦の14、15日であったが、下館にあわせて新暦の24、25日となったが、最近では農村部でも会社勤めが多くなり7月の第3土曜、日曜日に行われるところが多くなった。
 よく海外旅行をしたり海外に長期滞在した人達があらためて日本の良さを見直したということを聞くが、下館の祇園祭も下館にいると毎年暦通り行われるのがあたりまえであり、又なんの不思議もなく見過ごしているが、下館を出て外から下館の祇園祭を見ると、あらためて他の地方との違いや特徴がわかる。
 それではその特徴や違い、又、昔からの変化をあげてみよう。    目次へ



夜祭り

 なんと言っても最大の特徴は夜祭りであることである。山車、屋台などのいわゆる曵山祭は夜に行われるものが多い。又北陸地方でみられる切籠といわれる万灯などは夜祭であり、大阪天満宮の船渡御も夜に行われる。しかし、神輿の夜間渡御となると全国的にも非常に数が少ない。
 東京都下府中市の大国魂神社の「府中くらやみまつり」もかつては深夜であったが近年は保安上の理由から夕方の3時頃からの出御で8時頃にはお旅所に入り終りとなっている。
 最も有名な東京台東区鳥越神社の宮入りが夜間になるがこれは昼間渡御の延長であって純粋な夜祭といいがたいが、神輿の葺返し(屋根と軒の間にやね上に立ち上げる飾り。俗に賽銭受けなどと言う人がいる。)に弓張り提灯をつけ、数十本の高張提灯に守られての宮入りは、数少ない神輿の夜祭りである。
 同じく東京品川区東大井の鮫州八幡神社の祭礼は古式を現在によく残している祭である。8月15日に近い土曜日、日曜日。祭りの初日、午前2時に大神輿に御霊を移し旧東海道を深夜提灯をさげて御旅所まで渡御する。そして翌日の夕刻神社に還御する。
 この様に神輿の夜間渡御は例が非常に少なく、下館の祇園はめずらしいのである。まして提灯をつけての夜祭は。下館市史によれば、柳田国男著の「日本の祭り」より引用し、古くは祭りの一日とは、宵から翌朝までの暗い間を意味し、くらがりの中の祭祀によって神、人合一の体験がなされたという。徹夜で神輿が渡御するということは、こうした観念にもとずく祭りの風習であった、という。
 昭和32年までは羽黒神社の大神輿も徹夜の渡御であった。子供神輿のお宮入りも夜の12時以後の真っ暗な中で行われたが、最近は日が落ちるとすぐ夜の8時頃になってしまうのは残念である。
 昭和24、25年の頃大神輿が金井町を渡御中に心棒を破損して即修理をしなければ渡御が不可能な状態になり、修理すべく三峰神社神の神界一帯を一点の灯りの灯もなく真の暗闇にして御霊を移しかえた事がある。          目次へ



川渡御

 海浜地方において海辺に降りて神事を行う浜降りが多くある。特に神奈川県高座郡寒川町の寒川神社の浜降り祭は、茅ヶ崎市南湖海岸へ近郷の神社の神輿五十基近くが海中渡御を行う。
 江ノ島神社の祭礼は江ノ島の天王祭と云われ、江ノ島より対岸の小動神社海中渡御が行われていた。
 千葉県夷隅郡大原町十八神社の合同祭りは「大原のはだか祭り」として有名で、9月23日「汐ふみ」と云う海中渡御が大原の海岸で行われる。
 同じ千葉県白子町の白子神社の祭りも「「汐ふみ」といって、海中渡御がある。
 東京都品川区北品川の品川神社を北の天玉、南品川の荏原神社を南の天王と称し、両社の祭礼を品川の天玉祭とよんでいる。特に南の天王祭を俗に「河童祭り」とよばれ、東京で唯一の海中渡御の行われる祭りとして有名である。
 荏原神社の前を流れる目黒川より神輿を船に乗せ羽田空港の南の埋立地、京浜島の海岸で海中渡御を行う。鮫州八幡の神輿もかつては海中渡御を行っていた。
 中央区佃島の住吉神社の八角神輿は昭和30年頃までは隅田川の水中渡御を行っていたが、防波堤や他の理由で中止になった。しかし、平成2年の大祭には水中渡御にかわって船に乗せて船渡御がおこなわれた。
 先に夜祭りのところでふれた東京都下府中市の大国魂神社の「府中くらやみまつり」は初日の4月30日「品川海上禊祓式」で始まる。神職一同が品川の荏原神社に出向き、ここから船で羽田沖まで出て海水で身を清める神事をおこなう。
 茨城県下の海岸近くの神社の祭礼には神輿の海中渡御が多く行われていた。現在では神輿の海中渡御はなく、神主達により神事の禊の祓いが行われているだけになった。これら海岸地区で行われる祭礼は漁師達による大漁祈願が主である。
 このように「浜降り」や「汐ふみ」などの神輿の海中渡御はたくさんあるが、川の水中渡御となると現在ではほとんど行われていない。これは川という立地条件が必要である。
 川渡御する神輿として最も有名な祭りに埼玉県秩父市番場町秩父神社の河瀬祭りがある。7月20日荒川にて「神輿洗い」と云われる川渡御が行われる。同じく埼玉県大里郡妻沼町葛和田大杉神社の神輿が利根川での川渡御をする。
 川渡御ではないがめずらしいものに千葉県野田市三ツ堀香取神社の祭礼は「どろんこ祭り」といい、簡素な白木の神輿が大きな穴の中にどろ水を入れ、その中で神輿をもみあう。
 下館市内の川筋の集落の祇園祭りではかつて川渡御を行っていたところがある。小貝川端の八田や大谷川筋の神分の神輿が川渡御を行っていたという。
 禊神事である川渡御は、町中や集落をねり歩いた神輿の汚れを川に流すことである。林部落ではわらで造った神輿で部落内をねり歩いた後、そのけがれたわら神輿を大谷川に流れ込む用水掘に流していた。
 真偽のほどは定かではないが、戦前は、桜町の神輿(現在は上野殿)は汚れた神輿を川に流し、勤行川を流れてきて大日堂のところで引き上げたそうである。
 下岡崎の富田正雄氏の話では現在の神輿は戦前勤行川へ流したとのことである。
 東榎生の野沢啓氏の話にも東榎生の神輿も勤行川を流れてきたものであるという。この東榎生の場合は流す方と受け取る方とで連絡しあったという事であろうが、けがれを流した事にかわりはない。               目次へ



半纏

 下館の祭り半纏は、浴衣地でこの地方だけに見られるもので、なぜか小貝川、勤行川流域だけにみられる。結城の祇園の白い行衣も独特のものである。しかし、近年はほとんど見られなくなり、一般的な半纏に変わった。
 石岡市の総社祭りに出御する神輿のかつぎ手の衣装は白い袴姿で全国的に見ても古式の神社の祭礼に多い。
 下館の祭り半纏が浴衣地であるのは、下館にはかつて紺屋が多かったせいなのであろうか。人によっては襦袢ともよび事実着物の半襦袢としてもむと使用したりしていた。夏に入るとどこの紺屋の物干し場にも高々と干し上げられた半纏生地が翻るさまを見ると祇園が近づいた事がわかり、心踊る思いがした。
 この半纏にも近年変化が現れるようになった。すなわち昔の職人さんが着ていた印半纏と同じ形である。この半纏を着ているのは町内の役員達にみられるようになった。袖丈や丈が長く、キリッと帯をしめて粋な姿にはよいものであるが、この半纏は着こなしがむずかしく、誰にでも似合うものではなくて、まして子供にはなかなか似合わなく、だらしのない姿になってしまう。
 いつまでもよい伝統は守っていきたいものである。         目次へ



お囃子

 下館の祭囃子のスタイルも又独特なものである。
 残念ながら私はお囃子を演ずる事ができないので細かなリズムの事は専門家に聞かなければならない。
 だいたい北関東の祭囃子は、かつて江戸時代以来利根川の水運によって運ばれた江戸からの文化の流れよる。一説には神田囃子の流れを組むものであるという。そしてそのスタイルは川島や結城の祭囃子のように大勢で演じられにぎやかである。
 この下館地方の祭囃子は勤行川と小貝川のせまい流域で見られるもので、北は久下田から南は野殿あたりまで、東は小貝川の東側、井出蝦沢から明野町の保末あたりまでで、それより東、すなわち協和町、明野町の台地になると違う。西は大谷川に接する集落までで、鬼怒川文化の影響の強い川島、小川、下江連などとは違うお囃子である。
 その構成は、笛、大太鼓、タッパと呼ばれる小太鼓によって演じられ、関東一円で演じられるにぎやかな祭囃子と違い、ゆっくりしたバチの音と哀愁をおびた笛のひびきは独特の趣がある。
 このようにゆっくりした曲の為に他の土地の人達にはなかなか評価が低いのは残念だ。
 現在は各町内でその継承に熱心であり、又お囃子保存会が結成され多くの会員により受け継がれている。
 私達の子供のころは、今のようにテープレコーダーや良き指導者がいたわけではなく、見よう見まねで覚え、又誰が伝えたか口伝であり、「テンテンツクテテンがテンツクドンツクドン」などと覚えた。曲名も「二四六」と呼び、太鼓の打つ数そのままに呼ばれていた。
 こうして覚えたお囃子も20年近い祭りの中断により忘れさられてしまった。
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かけ声

 ある時はゆっくりと、ある時は早く、勇ましく、そして優雅に、軽やかに、重々しくと千変万化、下館の神輿渡御のかけ声はときによりいろいろ変わるのが特徴である。
 結城の神輿は「ヤッショイ ヤッショ」。川島も結城の影響を受けて同じである。小山の神輿のかけ声は独特である。「午頭天王」と神の名をとなえるのであるが、これが訛って「アンゴシテンノ」という発音になる。このかけ声も今はわずかに町内神輿のときにときどき聞かれるくらいでほとんどが変化してしまった。
 神奈川県藤沢市から湘南の茅ヶ崎海岸あたりの神輿は「ドッコイ、ドッコイ」である。
 このように地方により神輿渡御のかけ声も一様でなかったが、近年すべて東京風をよしとする考えからか「ソイヤソヤ」というかけ声に変わりつつある。
 浅草三社をはじめとする江戸前かつぎのかけ声である。「ソヤソヤ」は単調で始めから終りまで一本調子でなんの変化もない。このかけ声は昔からのものではなく、昭和30年後半の頃よりこのようなかけ声にかわってきたのである。昔は「ワッショ」のかけ声であったが、戦後生活が一応落ち着きを取り戻した昭和23、24年頃より戦争により中断した祭りが復活し、戦後の一大ブームとなって昭和30年頃まで盛況を続けたが、経済の高度成長期を迎えすべての生活が合理性ばかり求めるようになると、祭りなど見向きもされなくなり、どこの祭りもさびしいものになっていった。下館地方においても新生活運動により神輿の渡御が中止された。
 40年代に入り、そうゆう状況の中浅草などの下町で神輿の好きな人達により祭りの愛好会である「祭好会」や「公道会」の集まりが出来、再び神輿の渡御が行われるようになった。
 この神輿同好会の人達のかけ声が「ソイヤソヤ」であった。そして高度経済成長による物質文明に反省の色が見られるようになると、伝統や古い文化が見直され、再び道路なども人間性をとりもどし、歩行者天国などが出現すると神輿の渡御が盛大に復活した。そしてかけ声も「ソヤソヤ」一つになってしまった。
 東京都江東区深川の富岡八幡宮(平成3年5月、日本一の大神輿を新造。今後これを超える神輿は造られないだろう)の祭りは「ワッショ」である。この八幡宮の祭りも東京都内である為に江戸前のかけ声である「ソヤソヤ」になりつつあったが、地元の人達の熱心な努力により旧来の「ワッショ」に復活したのである。
 下館では、5年程前よりお仮屋前にてかぞえ唄などを唄いながら神輿をもむようになった。そして唄の合いの手に「ヨイショ」と入れ、神輿に威勢をつけ最後に「ドッコイ ドッコイ」とかけ声をかけるかつぎ方をするようになった。
 これは昭和61年11月23日の下館の秋祭り(下館まち)に大神輿の渡御を行ったが、その時下館の神輿同好会の「館睦」と栃木県の神輿同好会の人達によって始められたものである。
 始めて唄を唄いながら神輿をかつぐのを見たのは東京都大田区の羽田神社の祭礼であった。この時は皆様御存じの東京音頭であった。
 ハァー踊り踊るなら「ヨイショ」東京音頭「ヨイショ」と、合いの手を入れながらの渡御であった。
 又下館における最近のかけ声の変化でリーダーが一人でハンドマイクで全員に聞こえるように「ソイ、ソイ、ソイ」と音頭をあわせて「ソヤソヤ」と威勢をつけるかけ声をするようになった。
 下館で古くから受け継がれてきた「オヤッサ、オヤッサ」というかけ声はあまり聞かれなくなった。                        目次へ



木、拍子木


 神輿のかつぎ出しや休憩の時の合図を木(キー)を入れるという。「木」(キー)であって拍子木とはいわない。
 今若者達の間で古典が見直され歌舞伎が大人気である。役者が大見得を切って形が決まったところで「木」が「チョン」と入る。
 若貴人気で土俵はいつも大フィーバー。この大相撲の横綱や幕内力士の土俵入り及び結びの一番前に打ち鳴らす「木」。国技館いっぱいに鳴りひびいて大相撲ファンならずとも心を打つ「木」のひびきである。
 下館の「木」の入れ方は独特のもので、他には類を見ないものである。 目次へ



鳳凰


 下館の神輿は、神輿の鳳凰(クジャク)に稲束を喰わえさせる。
 これは、祇園祭が八坂神社の疫病神を祭るために無病息災を願うのはもちろんのこと、水神も祭っているために二つが一緒になって、五穀豊穣を願うために鳳凰に稲束を喰わえさせるのである。
 他の地方で9月秋に行われる祭礼にはときたま小さな稲穂一本を喰わえさせているのを見かけることがあるが、下館のように稲を一株根こそぎ奉書でくるんで喰わえさせるのは見たことがない。                    目次へ



担ぎ棒と担ぎ方


 神輿の担ぎ方も地方によりいろいろあるものである。担ぎ方は、担ぎ棒の組み方やかけかけ声などと共にかわる。
 下館の場合は基本的には担ぎ棒は井の字型に組む。神輿の台座(通称マスなどという)の棒穴に長いタテ棒を通し楔で固定する。そして台座の前後にヨコ棒(この横棒をトンボという)を麻紐で結わえ固定する。
 担ぎ方も担ぐというより、もみ合うためで、本来は担ぎ手の向きも神様に尻を向けないように前後左右とバラバラになるのが基本であった。
 この井の字型に担ぎ棒を組むのは茨城県下では古くから受け継がれている祭りに多く見られる。
 下館では昭和52年に大神輿の大修理をした。その時に、より多くの人が担げるようにと、井の字型の担ぎ棒に加えタテ棒の前後に二本のヨコ棒(トンボ)を追加した。
 担ぎ方は荒く上下に大きく煽る。とくに両足をそろえ縄跳びをするようにとびはねて煽るのである。
 近年神輿を修理したり新調した町内がある。そのときに担ぎ棒を井の字組みではなくタテ棒を4本にする組み方にかえた町内がみられるようになった。
 この担ぎ棒の組み方は神輿の台座の横穴に2本のタテ棒を通し楔で固定する。この時このタテ棒を親棒とよぷ。この親棒に台座の前後に横棒であるトンボを麻紐で固定して井の字の組み方にし、トンボの両端に2本タテ棒を取り付ける。このときのタテ棒を脇棒とよぶ。親棒、脇棒とタテ棒が4本になる。
 そして担ぎ手は全員前向きになり、つま先を立て腰で調子をとりながら「ソヤソヤ」と前進のみである。これを「江戸前かつぎ」といい、東京浅草や鳥越など都内で一番多い担ぎ方である。
 東北地方のとある町で東北地方独特の素朴な祭りを期待し、でかけてみて江戸前担ぎの神輿を見るとがっかりする。
 近年復活した祭りや自治体による市民祭などはすべてこの江戸前担ぎであり、この担ぎ方が西日本をのぞき全国を制覇しつつある。
 台座に2本のタテ棒を通した形を二天棒といい、質素な神輿や古い歴史のある神社に多くみられるほか、神奈川県下湘南地方の神輿はみなこの二天棒であり「ドッコイ、ドッコイ」のかけ声のほか、神輿の台座に取り付けられた鏈を「カッチャ、カッチャ」と打ならしながら担ぐ。
 東京都荒川区南千住の素盞雄神社の神輿は「神輿振り」しいい二天棒なので屋根の大鳥が地面にふれるくらいに大きく左右に揺さぶる。
 またこの担ぎ方は千葉県船橋市地方にもみられる。千葉県市川市行徳神明宮の神輿は「地ずり」という担ぎ方をする。おそらくは日本で有数の大きな神輿であろう。「ショイショイショイ」というかけ声とともに地面すれすれの低い位置から一気に天空高くほうりなげるめずらしい担ぎ方である。
 横棒担ぎ。「カニ担ぎ」とか「城南担ぎ」とかいわれる。東京品川地区の担ぎ方である。担ぎ棒はトンボが6本であるので横棒担ぎで下館の神輿と似ているが、少し違うのは時々小刻みに揺することである。そして神輿の胴に大きな締め太鼓がくくりつけられ大勢の人達が笛を吹いてはやしたてる。「品川ばやし」という。
 よこた担ぎ。残念ながらこの担ぎ方はまだ見たことがない。東京大田区の羽田神社、六郷神社の担ぎ方である。担ぎ棒は下館と同じトンボが4本であるが、前後2本のトンボが少し中央よりになっている。「よこたでおいで、オイッチ、ニイ、サン」のかけ声とともに神輿を大きく左右に振る。
 港区大神宮の祭りの神輿の担ぎ方は「江戸前担ぎ」であるが神社の大鳥居前にて神輿を天空高くほうりなげる。次から次と各町内の神輿がつづいて天空になげるのはおもしろい。その他、おもしろいのに講談でお馴染み寛永三馬術の馬垣平九郎が馬で登った愛宕神社の階段を神輿を担いで登り下りをする。担ぎ手がまいるまで、何回も何回も登り下りをする。
 下館の子供神輿の担ぎ方で昭和2、30年代に行っていたものに神輿の休憩の時に台を入れる前に、神輿を「さし」て3回ほど廻して台を入れていた。又街角など広い場所でも同じように「さし」て3回程廻していたが、今はほとんど見られなくなった。
 大神輿の担ぎ方で特筆する事は、神輿を落とす事である。かつては他の地方でも落としていたらしいがこの風習は下館や結城、その他取手などのほんの数例にすぎない。他の地方の人にいくら話をしても理解はできない。       目次へ



泥摺り


 神輿の台座の下にもう一段高さが3〜5センチメートル位の台座がつく。これを泥摺という。これは神輿を保護するもので地方によって神輿を休憩摺る時に台の上に神輿を乗せずに直接地面に置く為に台座が痛むのを防ぐためのものである。小山や結城、川島の神輿がかつてはそうであった。
 下館の大神輿は前項の担ぎ方で述べた神輿を落とす為に、神輿の痛みを保護する意味で特に高さが15センチほどもある泥摺りとなっている。この様に高い泥摺りは他の地方には見られない。結城では角棒を台座の下に2本、タテ棒と平行にくくりつけて、地面に置いた時や落とした時の保護をしている。浅草三社の神輿は台座の下に高下駄の歯をつけている。
 又下館の高い泥摺りは神輿を落とした時に地面と担ぎ棒のすき間を大きくして担ぎ手が怪我をしないようにするためでもある。            目次へ



注連縄


 下館では神輿に注連縄を張る。これを誰もがするのがあたりまえでなんの疑問ももたないが、注連縄を張らない地方のほうが多い。特に都会や、観光化が著しい祭りや市民祭りなど宗教色の少ない祭りなどである。
 注連縄を張るのが見られるのは東京品川区や神奈川県下に多い。又ところにより、注連縄ではなく、蕨手に御幣さげたり、鳥居に榊をつけたりするのが見られる。
 これは下館にかぎったことではなく、どこの地方でも同じであるが町の入り口の角や、集落の入り口に道路をはさんで大きな竹を立て禍除けの注連縄を張ったが、今では交通の妨げになると取り払われてしまった。わずかな集落に2本の竹を一ケ所にまとめたて簡略化したものが見られるだけである。        目次へ



お仮屋


 地方によってはお旅所ともいう。又お仮殿ともいう。近年復活した祭りなどは、かつては数日間行われたのであろうがほとんどが一日で終わる。町中にお仮屋をつくるのは2日以上に祭りが続くものでなくてはならない。朝に神社を出御した神輿は夕方環御する渡会の祭りではお仮屋をつくる必要がない。
 下館の祇園においてお仮屋がどのように行われていたかは不明である。下館市史によれば、祭りが上町、下町交互に行われるようになったのは明治3年からである。
 お仮屋が上町は羽黒神社前、下町は商工会議所前(公会堂敷地)になったのは昭和に昭和に入ってからの事だと思うがいつの頃だったろうか。
 市民講座「郷土史」の講師、川俣英先生の「新聞に見る下館」の講議の中で大正3年7月28日、8月1日、同5日、同6日付けの下館の祇園祭に関する史料では、当時のお仮屋が上町の「郡役所」に置かれたことがわかる。
 上町下町交代でのお仮屋の安置が昭和58年より上町の羽黒神社だけとなり現在に至っている。                          目次へ 





 大神輿のの川渡御の時、神輿の胴に白い晒を巻くがこの晒に羽黒神社の朱印を押し墨書きで署名をする。これをのちに安産のお守り岩田帯とする。
 他の地区でときどき晒を巻いた神輿を見かけるけれども何の意味もなくただ格好をつけるだけのものである。下館の様に岩田帯というのはおそらく全国で下館だけであろう。
 これに似た風習が千葉県勝浦市川津地区の川津神社の祭礼にある。川津神社の祭神は天照大神で神輿に御霊を入れるさいに御霊を被っていた布地をのちに小さく切って、安産のお守りとして配る。 又海岸にて神事を行った時に使用した供え物や笹竹を無病息災のお札として各戸の神棚に祭る。川津神社もそうであるが、同勝浦市串浜地区の春日神社は神輿を高々とさして、その下を見物客や大勢の善男善女が三回ほどくぐる。「胎内くぐり」といって無病息災を祈るという、めずらしい事をする。                              目次へ



お宮入り


 氏子市中を渡御した神輿は神社に環御する。「お宮入り」である。他の地方では単に「宮入り」という。
 下館の神輿の「お宮入り」は神社を三廻りする。早足駆けでかけ声や鳴物は二拍子。全員の気がそろう。神社を右回り、「時計の針と同じまわり」で一周する毎に煙火の合図を上げて氏子に知らせる。お宮入りに神社を三巡りする例は少ない。こればかりは神社の境内に制限されてしまう。市内でも一本松や中館など一部だけである。
 かつて子供の神輿のお宮入りは深夜に行われていたが近年は子供は9時で終りなので、お宮入りは、日没と同時8時頃から行われる。
 大神輿のお宮入りにおいては、全員が担ぎ棒に掛かれるわけではなく、担ぎに余った人達は一人が担ぎ棒につかまり後の人達はみんな手をつないで間接的に全員が神輿に触れたことになるようなやり方は完全に行われなくなってしまった。目次へ



手締め


 それではここで手を〆たいと思います。お手を拝借、"よおう"「シャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャンシャン」これを3回くりかえし、3本〆で終わる。
 手締めの仕方にも地方地方によりそれぞれ特徴があった。東京都内の祭りは神社の神輿が氏子内を渡御する際、一町内の人達が自分の町内を渡御し、次の町内へ神輿を渡す。そしてこの町内を渡御し、又次の町内へと、順次神輿を受け渡しをして行く、町内渡しという渡御の仕方をする。
 それぞれ自分の町内だけをその町内の人が担ぐので、町内の出入り口で次の町内の人達と神輿の受け渡しの手締めをする。
 また各町内にある町内神輿の渡御において、休憩後担ぎ出しをする時に手締めをする。そのため、一日に何度も手締めをすることになる。
 その他祭りばかりばかりではなくいろいろな催しにこの東京の3本締めが行われ、さらにテレビ等の電波に乗り全国に知られるようになり、誰の頭にもこの東京式の手締めが浸透し、地元の昔からの伝統が忘れ去られていった。
 下館においては手締めは年に数度しか行われず、正確な手締めをできる者が少なくなり、バラバラな手締めとなってきたために、10年くらい前から下館独特の手締めではなく、この東京式の手締めになってしまった。
 私もはっきりしたことは忘れてしまった。一部だけ頭の中に残るのみで正確さに欠ける。
 「シャン、シャン、シャン、シヤシャシャンシャン、シャン」     目次へ



あとがき


 平成3年7月28日、下館祇園最後の渡御が終わり、お仮屋前において伊達組組長から伊達組百年目の歴史的な祭りが終わる挨拶が、ありました。
 下館の大神輿ができて約百年。私はその半分を生きてきた。そしてその三分の一をこの神輿を担いできた。私にとっても長い歴史であり、いろいろな思い出があり感無量であった。
 そのいろいろな思い出を綴ってみたかったが思うようには書けなかった。
 平成4年7月には新しい神輿ができる。下館のシンボルとして長く続く事を願う。
   平成4年1月記す。

                  参考文献
                   「神  輿」監持恒夫
                   「江戸神輿」小沢宏之    目次へ