疑問点2 羽黒神社を勧請したのは誰か

 様々な説の中でも三冊の歴史書に登場する文明年間、水谷勝氏という説は、本当なのでしょうか。何点かの疑問点を提示します。

 まず下館市史にも引用されている田町の田宮さんのお宅にある史料ですが、『田宮家文書』といわれるこの史料は江戸時代の下館を知る、大切な史料の一つです。この史料では、大町の羽黒神社と岡芹の羽黒神社を創った時期を元和4年(1618年)、創った人を水谷家八代目の勝隆であるとしています。『下館市史』では、勝隆がこの21年後に備中(岡山県)へ国替えになっているのだから、これは勧請したのではなく、新築か改築のことだろうとしていますが、 はたしてそうでしょうか。

 次の史料は、羽黒神社にあった「棟札」と呼ばれるものです。これは享保16年(1731年)に羽黒神社を大改修した時の模様が書いてある、やはり第一級の史料です。この「棟札」には、羽黒神社を創ったのは、寛永11年(1634年)だと書いてあり、田宮家文書とは十数年違いますが、同じ勝隆の治世です。「勧請之由来書」を書いた寛海和尚もこの「棟札」を見て、建物を造ったのは寛永11年だと書いています。

 そして最後は黒子の千妙寺に残っている史料です。江戸時代、大町の羽黒神社のそばには清龍寺というお寺があった事は別コーナーで書きましたが、このお寺は羽黒神社の神様をお参りするためのお寺でした。仏様ではなく神様をお寺でお参りするのは今では変ですが、 江戸時代にはこんな事はざらにありました。千妙寺の史料は、この清瀧寺が天台宗のお寺で、千妙寺の系列に入っていた、ということがわかる史料です。

 これがどうして大切かと言いいますと、羽黒神社は出羽の国(現在の山形県と秋田県)の羽黒山の神様を勧請して祀った神社ということです。このことは、大町の羽黒神社の境内にある案内板にも書かれています。江戸時代は神様と仏様を一緒に祀まつっていたのはすでに書きました。羽黒山でも例外ではなく、神様の他に仏様を祀っていて、真言宗に属していました。 ところが寛永18年、大きな事件がおきます。 それまでは真言宗だった羽黒山が天台宗に宗旨替をしているのです。これにはもちろん、訳がありますが本題とはかけ離れますので、ここでは書きません。しかし、天台宗に宗旨替えをしたことは事実です。

 これはとても重要なことで、勝氏の時代の文明年間(1469年から1486年)には、羽黒山はまだ真言宗だったことになりますが、勝隆の時代の寛永年間(1624年から1643年)には天台宗になっていたことになるのです。下館の羽黒神社も途中で宗旨替えしたのでしょうか。勝隆が備中に国替えになったのは寛永16年。宗旨替えはその後です。いったい何があったのでしょう。
 史料は勝隆を示しているように思えるのですが。



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