一つの大きな謎

 最後に大きな謎を考えて見ます。なぜ「羽黒大権現」か、という問題です。「市史」ように「日頃崇敬する」だけでは、数ある神様からなぜ羽黒大権現なのかがわかりません。

 これはかなりの難問です。そこで史料をつなぎ合わせて考えていくと、まず、「天海」 という僧が浮かんできます。水谷勝隆が上野不忍池に、琵琶湖の竹生島をまねて池の中に島を造って弁天堂を建てた、という記録があります。「落穂集」という江戸時代の些細な事を書き留めてある大変貴重な史料です。

 この工事は当時、徳川家にかなりの影響力を持っていた天海という僧が責任者でした。天海は下館地方に縁があり、勝隆とも面識がありました。天海は若い頃、長沼の宋光寺と言う寺の住職でした。勝隆との接触はその頃からのものです。ですから不忍池の工事は、勝隆が天海に声をかけたとも言えます。ただ造成した時期は諸説ありはっきりしませんが、寛永年間が有力です。

 天海は天台宗の僧でしたから徳川家も天台宗に帰依していますが、信心深かった勝隆もその影響は受けているはずです。

 実は羽黒山が天台宗に宗旨替えしたのも、当時、羽黒山の最高責任者であった天宥が、天海の力を必要としたのだといいます。
それまでは宥誉といった天宥が、天海から一字をもらい、その弟子となり改宗を進めたようです。ただし改宗は寛永18年。勝隆の国替えは寛永16年。残念ながら不忍池の普請はその前という事になります。

 勝隆と羽黒山の結びつきは、間に天海と天宥を入れるときれいに結びつくのですが、年がずれているのが惜しいところです。それにこの三人を結ぶ史料はありません。

 もう一つ、勝隆が建てた岡山の玉島の羽黒神社にあった史料には、水谷氏は最上の一族だ、と書いてあります。水谷氏は陸奥の国の磐城の出身ですが、出羽の最上氏から分かれたのかもしれません。最上氏は出羽の国の領主でしたから羽黒山との縁もあったのかもしれませんが、確認はとれていません。

 もしくは、以上のような理由が複数重なったのかもしれませんが、 いろいろな事を想像するのは自由だし楽しいものですが、 公のものに書くときは、 きちんとした裏づけが必要でしょう。 「歴史書」 は物語りではないはずですから。


大町の羽黒神社にある芭蕉の句碑。
「奥の細道」の紀行のとき羽黒山で呼んだ句が彫られている。
句は「有り難や雪をかをらす南谷」


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