宇都宮はますます怒りくるい、 部下の武田治郎(たけだじろう)に三千騎程をつけて、 久下田の城へ向かわせました。
蟠龍はこれを予想していましたので、 結城へ連絡して三百騎程の援軍をお願いしていました。 この援軍を待って作戦を練りました。
叔父の全芳に優秀な部下を五十騎と歩兵を五百人つけて北の大木戸おおきどへ配置しました。 鶴見、 平沢など、 これも精鋭を合わせて七十騎程と、 歩兵五百人は、 芳全寺の境内に隠れさせました。 結城からの援軍は、 西の木戸に百騎、 南の木戸へ百騎を配置し、 残った百騎は城の中にとどめておきました。 手薄になった方へ助けにいかせるためでした。 そして本陣には五百騎程で待ち構えました。 天文十五年 (一五四六) 四月二十三日午前六時、 武田治郎が三千騎を連れて押し寄せてきました。 まず水谷全芳が迎えうちましたが、 わざと負けたようにして引き返してくると、 攻めるほうは調子に乗って北の木戸を破って芳全寺の門前の高い堤を越えて、 城のお堀のそばまでせめてきました。 ここで全芳はまた攻めに転じてかまえを直して向かっていきました。 城の中からは五百騎程が、 陣形を整えていっせいに打ち出てきました。 宇都宮の軍は左右の敵に囲まれましたが、 これを打ち破ろうとした時、 芳全寺に隠しておいた勢力が、 槍やりを揃そろえ突いてきました。 宇都宮軍は逃げ道をなくし、 沼に飛び込んで、 水を呑んで死んでしまう者や、 池に落されて泥まみれで死んでしまう者もありました。 東西に逃げた者は、 結城の軍に切られ、 ついに武田治郎は、 秋山三右衛門に討たれてしまい、 残された兵たちも追いまわされて、 射る矢もなく、 旗はたや刀かたなも取り落として、 命からがら逃げ帰りました。 その後に死体を調べてみると、 八百人あまりもあったということです。 味方はたったの二十八騎が討たれただけでした。しかも、 首を取られるような事はありませんでした。 次の日の二十四日に城の南に穴をふたつ堀らせて、 死体を埋めて、 芳全寺の威岩和尚(いがんおしょう)を呼んで、 ていねいに供養をしました。 永禄二年 (一五五九) 八月一日。 結城政勝が五十六才で亡くなりました。 子供の時朝(はるとも)が結城家をついで結城はますます安泰でしたが、 蟠龍は世話になった政勝の死を機会にこれまでの事を振り返ってみました。 宇都宮尚綱(なおつな)は蟠龍と戦った後、 那須隆資(なすたかすけ)に討たれてしまい、 子供の廣綱(ひろつな)があとを継いでいるが、 その那須隆資も千本木重隆(せんぼんぎしげたか)に討たれてしまい、 国を二つに分けて乱れに乱れている。 今は水谷家も安泰だが、 このまま無事にすむとも思えない。 取り合えず宇都宮を撃退したのを機会に第一線から身を引くべきだと、 下館城を弟の勝俊(かつとし)にまかせて、 自分は久下田に隠居しました。 |