次に中郡の支配を考えたのは武州(ぶしゅう)の城主、 太田道灌(どうかん)の子孫である太田三楽資正(すけまさ)でした。 三楽は訳があって今は片野 (八郷町片野) に住んでいましたが、 その子の春資(はるすけ)、 同じく良資(よしすけ)、 娘聟むこの長倉遠江(ながくらとうとうみ)などを従え、 その他にも新治の勢 (新治郡の勢力) を引き連れていまだに落ち着かない中郡を攻めてやろうと、 天正十四年 (一五八六) 八月二十九日、 片野を出発して大増に陣を構えました。

 これを聞いた片見晴信(かたみはるのぶ)は、 橋本を出て板敷山(いたしきさん)に陣を張りました。 二十か所あまりにかがり火を焚いて、 いつでも合戦できる準備を整えていましたが、 太田三楽の陣は静かで音もありませんでした。 明けて三十日の午前六時頃、 片見晴信が、 山の中腹まで出陣しても、 三楽は戦たたかいを急ぐ様子もなく、 わずか二十騎ばかりを出して遠めに矢を射ってくるだけでした。 片見も同じように二十騎ほどで矢を射かえし、 また三十騎でばかりで攻めてくるので、 片見の軍も五十騎ほどで応戦すると、 太田の軍は坂を下くだって逃げ戻ります。 こんな事をしている間に日も暮れてしまいました。

 この坂敷山というのは、 険しい山で道は狭く、 大木が茂っていて岩肌がむきだしていました。 中国の本に 「一夫関(いっぷかん)に係かかれば、 万族(ばんぞく)も通りがたし (一人で守っても万人が通れない)」 という場所がありますがこういうところかと思うような場所でした。

 三楽の軍が大軍といっても、 簡単には攻め込めないところのように見えました。 片見の軍は高いところにかがり火を燃やさせて夜討ちの用心をしていましたが多少の油断をしていたのでしょう。 夜半すぎに三楽は貝や鐘をならし、 太鼓を打って開戦の声をあげました。 いつの間にか長倉遠江は後ろへ回り、 北の坂から聞こえる開戦の声は、 山にこだまして天に響くほどで、 地響きがするほどだったといいます。

 片見の軍はおどろいてうろたえてしまい、 正面へ逃げるのは大変だと思い、 後へ引こうと北へ向かって逃げ出しましたが、 弓を持つ者は矢を持っておらず、 槍長刀(やりなぎなた)を逆さについて自分の足を切るあわて者や、 うろたえて岩山に頭をぶつけて、 死んでしまう者もあり、 先に逃げた者は、 道から転げ落ちた者に踏み敷かれたり、 け殺されたりして、 谷底には次々と死体が落ちて重なり、 谷を埋めるほどになりました。

 片見晴信はようやく後の敵を切り抜いて、 わずかに七十余騎ほどで命からがら明け方に橋本へ逃げ戻りました。 ところが太田春資(はるすけ)は、 いち早く橋本に待ち構えていました。 桔梗(ききょう)の旗を二本、 風に吹き靡びかせてゆうゆうと陣を張っていました。

 片見は、 これは今はかなわないと引き返そうとすると、 三楽や長倉が後ろに迫っていました。 片見はこれでは逃げ切れないと思い、 左右前後へ駆け破って戦いましたが家来達は次々と討たれてしまい、 自分も腹を切って死にました。