多賀谷光常(みつつね)は、 この前の大串の合戦の時、 大串左衛門の首を結城政勝にご覧に入れたところ、
自分で腹を切って死んだ首だったので恩賞もなく、 かえって水谷正村に遅れをとった事を根に持っていました。 天文十年 (一五四一) 三月三日の事です。 春とは名ばかりの寒い日でした。 下妻城の家老をしていた成田主馬助(かずまのすけ)と言う者が、 小川野を通るのを正村が見て、 「あそこを通るのは下妻の成田ではないか。 わしの前を挨拶もなしに通りすぎるとは失礼だ。 こらしめてやれ。」 といいました。 そこで正村の家老の鶴見内蔵助(つるみくらのすけ)が、 行く手をさえぎり、 「家臣の身なら馬を降りて挨拶するものであろう。 馬の上で笠をかぶっているのもゆるせん。 首と一緒に笠をぬがせてやる。」 と家臣とともに成田を取り巻くと、 成田も少しは戦いましたが、 相手は数が多く、 部下も自分も手傷を負わされ、 やっとの思いで下妻へ逃げ帰り、 多賀谷光常に事情を訴えました。 光常は前々から下館の正村を面白く思っていなかったものですから、 この事件の話を聞いてますます怒り、 「家老をやられて黙っているわけにはいかぬ」 と五百騎程を連れて次の日の明け方には下館に押し寄せました。 水谷の軍も城の門をあけて、 いっせいに迎えうち、 大乱戦となりました。 これをみていた古屋三郎が結城へ飛脚を飛ばして事の次第を訴えると、 代官として玉岡成勝(なるかつ)、 山川三郎、 伊佐八郎が馬に泡をふかせながら駆けつけ、 説得を試みましたが、 二人は聞き入れません。 そこで結城政勝が自みずから間に入り、 「多賀谷、 水谷は結城のためには車の両輪、 鳥の両翼のようなものだ。 わしに免じて和解してくれ。」 といわれました。 二人とも政勝に説得されてはいやもおうもなく、 多賀谷は下妻へ引き上げました。 |